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ティファニーで朝食を 😍 なぜ名作なの?ひどいと言われる理由と評価が分かれるワケとは

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ティファニーで朝食を」といえば、オードリー・ヘプバーンが黒いドレスを纏いティファニーの店先でパンをかじるあの印象的なシーン。1961年の公開から半世紀以上経った今でも、多くの人々に愛され続ける名作映画です。しかし、「なぜこの映画が名作と言われるのか?」と疑問に思う方も少なくありません。

実は「ティファニーで朝食を」は、原作者トルーマン・カポーティが「ひどい」と酷評し、オードリー・ヘプバーンはミスキャストだとまで言われていた作品です。それにもかかわらず、なぜ時代を超えて愛される名作となったのか。その理由には、映画音楽「ムーン・リバー」の魅力や、オードリー・ヘプバーンの存在感、1960年代のニューヨークを舞台にした洗練された映像美など、様々な要素が絡み合っています。

記事のポイント!

  1. 「ティファニーで朝食を」が名作と言われる芸術的・文化的理由
  2. オードリー・ヘプバーンのキャスティングとそれに伴う脚本の変更点
  3. 原作と映画版の違いや批判される要素について
  4. 映画の象徴的なシーンや音楽、衣装が持つ文化的影響力

ティファニーで朝食をはなぜ名作と言われるのか?その魅力を徹底解説

  1. 永遠の名作と呼ばれる理由は複数のアプローチで輝いているから
  2. オードリー・ヘプバーンの存在感とキャラクター表現が映画の魅力を高めている
  3. 「ムーン・リバー」という名曲が映画の世界観を格段に引き上げた
  4. 1960年代のニューヨークを舞台にした洗練された映像美が評価されている
  5. ジバンシィによるファッション・アイコンとなったリトル・ブラック・ドレスが話題を呼んだ
  6. ブレイク・エドワーズの軽妙洒脱な演出がコメディとして高く評価された

永遠の名作と呼ばれる理由は複数のアプローチで輝いているから

「ティファニーで朝食を」が永遠の名作と呼ばれる理由は、単に一つの要素が優れているからではありません。この映画は、演技、音楽、映像、脚本、衣装、演出といった複数の芸術的要素が高い次元で融合することで、時代を超えた魅力を放っています。

250万ドルの予算に対して、興行収入1400万ドルという空前の大ヒットを記録したこの作品は、アカデミー賞では作曲家ヘンリー・マンシーニが最優秀作曲賞と最優秀歌曲賞の2部門を獲得しています。サウンドトラックアルバムも映画音楽としては異例の大ヒットとなり、映画音楽の概念と役割を変えるうえで大きな影響を与えました。

また、オードリー・ヘプバーンの魅力的な演技は、この映画を単なるロマンティック・コメディから、心に深く残る作品へと昇華させています。彼女が演じるホリー・ゴライトリーというキャラクターは、自由奔放でありながらどこか儚さを感じさせる複雑な女性像として、多くの観客の共感を呼びました。

さらに、1960年代初頭のニューヨークを舞台にした洗練された映像美や、ジバンシィがデザインした衣装の数々は、単なる映画の一要素を超えて、ファッションアイコンとして文化的影響力を持つまでになりました。

このように、「ティファニーで朝食を」は複数のアプローチが高いレベルで融合し、それぞれが単体でも光る要素として認められていることが、永遠の名作として評価され続ける最大の理由と言えるでしょう。

オードリー・ヘプバーンの存在感とキャラクター表現が映画の魅力を高めている

オードリー・ヘプバーンがホリー・ゴライトリー役を演じたことは、当初は大きな議論を呼びました。原作者トルーマン・カポーティはマリリン・モンローを希望していたほどです。しかし結果的に、オードリーの起用こそがこの映画を名作に押し上げた最大の要因の一つとなりました。

『ローマの休日』などで清純なイメージを確立していたオードリーにとって、自由奔放な高級娼婦役は大きな挑戦でした。当時32歳だったオードリーはキャリアの新境地を開くため、一抹の不安を感じながらもこの役に挑みました。

オードリーは役どころに合わせて脚本の修正を要求し、露骨な性的描写を抑えるよう働きかけました。これにより、映画版のホリーは原作よりもマイルドな表現となり、より広い観客層に受け入れられる作品となったのです。

オードリーの演技の魅力は、彼女が持つ対照的な要素にあります。一方で高級なファッションを身にまとい洗練された社交界の華として描かれながら、同時に無邪気で子供のような純粋さを持っている。この二面性がホリーというキャラクターに深みを与え、観客を惹きつけています。

オードリーはホリーを演じることで、それまでの「永遠の妖精」というイメージから脱却し、大人の女優への転身を果たしました。この映画をきっかけに『シャレード』や『暗くなるまで待って』など、より幅広い役柄に挑戦するようになったのです。こうした彼女のキャリアの転機となった作品としても、「ティファニーで朝食を」は映画史上重要な位置を占めています。

「ムーン・リバー」という名曲が映画の世界観を格段に引き上げた

「ティファニーで朝食を」を語る上で欠かせないのが、ヘンリー・マンシーニが作曲した名曲「ムーン・リバー」の存在です。この曲はアカデミー賞最優秀歌曲賞を受賞し、映画の世界観を格段に引き上げる役割を果たしました。

映画の中で最も印象的なシーンの一つが、オードリー・ヘプバーンがアパートの非常階段でギターを抱えながら「ムーン・リバー」を歌うシーンです。プロの歌手ではないオードリーの素朴な歌声が、かえってホリーの内面の孤独や憧れを表現し、観る者の心に深く響きます。

マンシーニは、オードリーの歌唱力に合わせて「ムーン・リバー」を作曲したと言われています。歌詞はジョニー・マーサーが手がけ、ホリーの故郷への郷愁や旅立ちの願望を詩情豊かに表現しています。この曲が映画全編を通して様々なアレンジで使われることで、ストーリーに一貫した情緒を与えています。

「ティファニーで朝食を」以前の映画音楽は、なるべく目立たないようにストーリーを盛り上げる脇役的な存在でした。しかし、この映画でマンシーニが手がけたポップでキャッチーな音楽スコアは、映画と同等の存在感を放ち、映画音楽の可能性を広げました。

サントラアルバムも大ヒットし、映画を見ていない人にも「ムーン・リバー」は広く親しまれるようになりました。音楽が映画の枠を超えて文化的影響力を持つという現象は、当時としては画期的なことでした。こうした音楽面での革新性も、この映画が名作と言われる大きな理由の一つです。

1960年代のニューヨークを舞台にした洗練された映像美が評価されている

「ティファニーで朝食を」の舞台は、1960年代初頭のニューヨーク。特に五番街に位置するティファニー本店前のシーンは、この映画を象徴する重要な場面です。映画冒頭、まだ人気のない早朝のニューヨーク五番街にタクシーが滑り込み、リトル・ブラック・ドレスを身にまとったオードリー・ヘプバーンがティファニーのショーウィンドウを眺めながら朝食をとるシーンは、映画史に残る名場面となりました。

実は、ニューヨークを舞台としているこの映画ですが、実際にニューヨークでロケされたのは10日間程度で、大半はハリウッドのパラマウント・スタジオで撮影されています。例えば、ホリーとポールが五番街のティファニー本店を訪れるシーンでは、入り口から店に足を踏み入れるまではティファニー本店でのロケですが、ショーケースに飾られた宝石を見る場面以降はスタジオのセットが使用されています。

また、雨の降りしきるクライマックスのニューヨーク路上シーンも、パラマウント・スタジオに常設されたニューヨーク・セットで撮影されたものです。しかし、こうした制約にもかかわらず、監督のブレイク・エドワーズは見事に洗練されたニューヨークの雰囲気を捉えることに成功しています。

特に注目すべきは、ティファニー社の伝説的なウィンドー・デザイナー、ジーン・ムーアによるディスプレイ作品が初めて映画で世界的に紹介されたことです。映画のおかげで、ティファニーのディスプレイ自体が芸術として認識されるようになったという側面もあります。

このように、「ティファニーで朝食を」は1960年代のニューヨークの洗練された都会の雰囲気を美しく描き出すことで、ファッショナブルな映像美としても高く評価されている名作なのです。

ジバンシィによるファッション・アイコンとなったリトル・ブラック・ドレスが話題を呼んだ

「ティファニーで朝食を」の影響力は、映画の枠を超えてファッション界にも及びました。特に有名なのが、オードリー・ヘプバーンが冒頭シーンで着用しているジバンシィデザインのリトル・ブラック・ドレスです。この黒いドレスは映画の公開後、すぐにファッション・アイコンとなり、現代でもなお「リトル・ブラック・ドレス」と言えば多くの人がオードリーのイメージを思い浮かべるほどです。

ジバンシィとオードリー・ヘプバーンの関係は単なるデザイナーと女優の関係を超えた深い友情に基づいていました。『麗しのサブリナ』で出会った二人は、以降もオードリーの多くの作品でジバンシィが衣装を担当し、彼女の洗練されたイメージ作りに貢献しました。

「ティファニーで朝食を」においては、ホリーのキャラクターの魅力を引き立てるために、ジバンシィは彼女のワードローブに特別な注意を払いました。リトル・ブラック・ドレスだけでなく、映画全体を通してホリーが着用する様々な衣装は、彼女の自由奔放な性格とエレガントな雰囲気を見事に表現しています。

このように、映画における衣装が単なる役者の着るものから、キャラクターを表現する重要な要素、さらにはファッションの潮流を作り出す文化的アイコンへと昇華した例として、「ティファニーで朝食を」は映画史において重要な位置を占めています。

オードリー・ヘプバーンとジバンシィの協働によって生まれたファッションイメージは、60年以上経った今でも色あせることなく、多くのデザイナーやファッション愛好家に影響を与え続けています。こうしたファッション面での革新性と永続的な影響力も、この映画が名作として評価される理由の一つと言えるでしょう。

ブレイク・エドワーズの軽妙洒脱な演出がコメディとして高く評価された

「ティファニーで朝食を」を名作に押し上げた要素の一つに、監督ブレイク・エドワーズの軽妙洒脱な演出があります。エドワーズは大人向けの荒唐無稽なユーモアを基調としながらも、そこはかとない切なさや哀しみを漂わせた語り口で物語を紡ぎ出しました。

特に際立っているのが、ホリーがカフェ・ソサエティの友人たちを自宅へ招いたパーティー・シーンです。実は脚本では主なセリフ以外に具体的な描写がなく、エドワーズ監督はスタッフやキャストと撮影現場で相談しながら、「奇人変人の大饗宴」とも呼ぶべきクレイジーなパーティを即興的に創り上げました。

このパーティシーンのために集められたのは、普段から監督と気心の知れた友人たちばかり。衣装や小道具もキャスト自身が私物を持ち寄り、さらに撮影では本物のシャンパンが振る舞われたといいます。この賑やかで活気あふれる演出が評判となり、後にエドワーズ監督はこの経験を生かしてピーター・セラーズ主演の『パーティ』(1968年)を制作するほどでした。

また、エドワーズはオープニングのロングショットや、雨の中のクライマックスシーンなど、視覚的にも印象的なシーンを多く生み出しています。彼の演出スタイルは、コメディでありながらも情感豊かで、観客の感情に強く訴えかけるものでした。

エドワーズ監督は、テレビシリーズ『ピーター・ガン』以来のパートナーである作曲家ヘンリー・マンシーニとのコラボレーションによって、音楽と映像が見事に調和した作品を作り上げました。この二人の才能の融合が、「ティファニーで朝食を」に特別な魅力を与えていると言えるでしょう。

ティファニーで朝食をはなぜ名作と批評が分かれる作品なのか

  1. 原作と映画版では大きくストーリーが異なっている
  2. 原作者カポーティが描きたかったホリー像と映画版は違う
  3. ホリーの奔放すぎる行動や道徳観に違和感を覚える人も多い
  4. マリリン・モンローではなくオードリー・ヘプバーンが選ばれた理由
  5. 日本人キャラクター「ユニオシ氏」の描写は現代では批判の対象
  6. ティファニーという場所とホリーの関係性が示す象徴的な意味
  7. まとめ:ティファニーで朝食をがなぜ名作と言われるのかは複数の芸術的要素が組み合わさった結果

原作と映画版では大きくストーリーが異なっている

「ティファニーで朝食を」の映画と原作には、かなり大きな違いがあります。特に大きく異なるのはラストシーンです。原作小説では、ホリーは最終的にブラジルへと旅立ち、語り部である「僕」(映画ではポール)は彼女と連絡を取り合うことなく、ただ彼女の思い出を胸に抱くという結末でした。

一方、映画版では愛とロマンスに重点が置かれ、雨の中で猫を探すクライマックスシーンの後、ホリーはポールの愛を受け入れ、二人は抱き合うというハッピーエンドになっています。この変更は、ハリウッド映画のコンベンションに合わせたものであり、また当時の検閲制度「ヘイズ・コード」の影響も受けています。

原作小説の語り部「僕」は同性愛者の可能性が示唆されていますが、映画ではジョージ・ペパード演じるポールとして、ヘテロセクシュアルな恋愛の相手に変更されました。また、原作のホリーはもっとシニカルで複雑な性格として描かれていますが、映画版では無邪気でチャーミングな側面が強調されています。

こうした変更について、原作者トルーマン・カポーティは大いに不満を抱いていました。彼は映画の出来栄えに憤慨し、特にオードリー・ヘプバーンのキャスティングには強く反対していたといいます。

しかし、こうした原作との違いがあるからこそ、映画は映画としての独自の魅力を持つことができたとも言えます。原作の持つダークで複雑な側面が薄められた代わりに、より多くの観客に受け入れられる親しみやすさと、時代を超えた普遍的なテーマを獲得したのです。

このように、原作と映画版の違いは「ティファニーで朝食を」が名作と呼ばれる一方で、批評が分かれる要因にもなっています。原作ファンからすれば物語の本質が変わってしまったと感じる一方、映画として見れば独自の芸術性を持った作品として評価できるのです。

原作者カポーティが描きたかったホリー像と映画版は違う

トルーマン・カポーティが原作で描きたかったホリー・ゴライトリーと、映画で描かれたホリー像には大きな隔たりがあります。カポーティの原作では、ホリーはもっと強かでシニカルな女性として描かれており、物語全体にも戦後アメリカの光と影が色濃く反映されていました。

カポーティ自身、ホリーのモデルとなった人物として自身の母親リリー・メイを挙げています。彼女は息子をアメリカ南部の親戚に預け、ニューヨークの男たちを渡り歩いたといいます。また、カポーティ自身の半生も、恵まれない出自でありながら生来の社交性と巧みな話術を駆使し、上流階級に食い込んだという点でホリーのキャラクターに投影されています。

原作のホリーは単なる夢見る少女ではなく、強かな意志を持って自分の道を切り開こうとする女性でした。彼女の高級娼婦としての仕事も、当時のアメリカ社会における女性の生き方の一つとして、より現実的に描かれていました。

しかし映画版では、オードリー・ヘプバーンの清純なイメージに合わせて、ホリーのキャラクターはより無邪気で愛らしい方向に変更されました。高級娼婦という設定は薄められ、代わりに「社交界の蝶」としての側面が強調されています。

これらの変更に対して、カポーティは「あの映画は私の小説とは何の関係もない」とまで言い切ったほどです。彼は特にオードリーのキャスティングに対して「完全なミスキャスト」と批判し、自身がイメージしていたホリー役にはマリリン・モンローが適任だと考えていました。

しかし歴史的に見れば、映画版のホリー像が多くの観客に愛され、時代を超えて支持されたのも事実です。原作者の意図とは異なる方向に進んだとはいえ、映画版のホリーは新たな魅力を持ったキャラクターとして確立され、映画史に残る名作を生み出す原動力となりました。

ホリーの奔放すぎる行動や道徳観に違和感を覚える人も多い

「ティファニーで朝食を」が時に批判の対象となる理由の一つに、主人公ホリー・ゴライトリーの奔放すぎる行動や道徳観があります。映画の中でホリーは、金銭的な援助を男性から受けたり、万引きをしたり、刑務所に入っているマフィアの伝言を運ぶなど、現代の感覚では「問題のある行動」を取っています。

特に物議を醸すのが、ホリーとポールが百貨店で万引きをするシーン。「初めてのことをしよう」と無邪気に犯罪行為に及ぶ描写は、当時はコメディとして受け止められていましたが、現代の視点では違和感を覚える人も多いでしょう。

また、自由奔放な生き方を標榜しながらも、実際には金持ちとの結婚によって経済的安定を得ようとするホリーの姿勢にも、矛盾を感じる視聴者は少なくありません。映画の中で彼女は、自分のことを「野生のもの」と表現し、「誰のものにもならない」と主張しますが、同時に「ティファニーで朝食が食べられるような身分」になりたいという物質的願望も持っています。

加えて、ホリーが雨の中でタクシーから猫を投げ出すシーンも、動物愛護の観点から見れば問題のある描写です。このシーンは彼女の感情的な混乱を表現するために入れられたものですが、現代の感覚では共感しにくい行動と言えるでしょう。

しかし、こうした「奔放さ」は、1960年代初頭という時代背景を考慮する必要があります。女性の自立や自由な生き方がまだ十分に認められていなかった時代において、ホリーのような女性は革新的な存在でした。彼女の行動の問題点を指摘することは容易ですが、同時に彼女が体現していた「女性の自由」という価値観は、当時としては先進的だったことも忘れてはなりません。

「ティファニーで朝食を」は、ホリーの奔放な行動を通して、社会規範と個人の自由の間の緊張関係を描き出しています。彼女の行動に違和感を覚えながらも、多くの観客が彼女に共感できるのは、その底にある「自分らしく生きたい」という普遍的な願望を感じ取るからかもしれません。

マリリン・モンローではなくオードリー・ヘプバーンが選ばれた理由

「ティファニーで朝食を」の主演をめぐっては、興味深いキャスティングの裏話があります。原作者トルーマン・カポーティは、ホリー役にマリリン・モンローを強く希望していました。カポーティは「マリリンはあれだけセクシーなのに純真で、ホリー・ゴライトリーを演じるために地上に遣わされたのだ」と語るほど、彼女をホリー役の筆頭候補と考えていました。

実際、マリリン・モンロー自身もこの役に興味を示していたといわれています。彼女はそれまでの「セックスシンボル」としてのイメージから脱却し、より真摯な演技に挑戦したいと考えていた時期でした。

しかし、製作者のマーティン・ジュロウとリチャード・シェファードは、モンローが適役とは考えていませんでした。彼らにとってホリーは「シャープでタフ」な女性であるべきで、か弱いイメージのモンローがそのような人物を演じるのは説得力に欠けると判断したのです。

加えて現実的な問題として、モンローは当時、無責任な行動で悪名高く、慢性の遅刻癖と台詞覚えの悪さも製作側にとっては致命的でした。実際、彼女が出演した前作『お熱いのがお好き』(1959年)でも、監督のビリー・ワイルダーは彼女の扱いに苦労したと伝えられています。

別の説では、モンローの所属事務所がセクシー路線からの脱却を望んでいなかったため、出演を断ったとも言われています。いずれにせよ、マリリン・モンロー主演の「ティファニーで朝食を」は実現しませんでした。

代わりに白羽の矢が立ったのがオードリー・ヘプバーンでした。当初、オードリー自身も「ホリー」という役柄に不安を感じていましたが、製作側は脚本を彼女のイメージに合わせて修正することで対応しました。

結果として、オードリーの起用は大成功を収めます。彼女の清純なイメージと高級娼婦という役柄のギャップが、かえってホリーという人物に独特の魅力を与えることとなりました。また、オードリーの持つエレガントさとファッションセンスは、ニューヨークの社交界を舞台にした本作に完璧にマッチしていました。

今から振り返れば、マリリン・モンローではなくオードリー・ヘプバーンが選ばれたことが、「ティファニーで朝食を」を名作に押し上げた重要な要素だったと言えるでしょう。

日本人キャラクター「ユニオシ氏」の描写は現代では批判の対象

「ティファニーで朝食を」の中で、現代的な観点から最も問題視されているのが、ミッキー・ルーニーが演じる日本人の大家「ユニオシ氏」の描写です。白人俳優が日本人を演じること自体が「イエローフェイス」と呼ばれる人種差別的行為とされる現代においては特に批判の対象となっています。

ユニオシ氏の描写は「背が低く、出っ歯で、眼鏡をかけ、口うるさい日本人」というステレオタイプに基づいていました。これは第二次世界大戦中にアメリカで広まった日本人に対する蔑視的なイメージそのものであり、今日の視点では明らかに差別的です。

ユニオシ役を演じたミッキー・ルーニー自身も、後に自伝の中でこの役を後悔していると告白しています。当時、彼はハリウッドでのキャリアがすでに下降線をたどっており、仕事に困っていたため断れなかったと述べています。

監督のブレイク・エドワーズも後年、この描写について「酷い過ちだった」と認めています。エドワーズは当初この役を「面白い」と考えていたようですが、時代が変わるにつれて自身の判断の誤りを認識するようになりました。

映画の中でユニオシ氏は、コミカルな存在として描かれていますが、その笑いは完全に人種的ステレオタイプに依存しています。彼の誇張された話し方やしぐさは、日本人を滑稽に描くための道具として使われているのです。

このような描写は、1960年代初頭という時代背景を考慮しても、現代の観客には受け入れがたいものです。実際、近年のDVDリリースや配信版では、この点に関する注意書きが追加されることもあります。

「ティファニーで朝食を」の魅力的な側面を評価しつつも、このような時代錯誤の描写があることは認識しておく必要があるでしょう。映画は時代の産物であり、良い面も問題のある面も含めて、歴史的・文化的文脈の中で理解することが重要です。

こうした批判点があるにもかかわらず、「ティファニーで朝食を」が今なお名作として評価されているのは、その他の多くの優れた要素が、時代による制約を超えて普遍的な魅力を持っているからだと言えるでしょう。

ティファニーという場所とホリーの関係性が示す象徴的な意味

「ティファニーで朝食を」というタイトルには、深い象徴的な意味が込められています。ティファニーは単なる高級宝飾店ではなく、ホリーにとって特別な意味を持つ場所として描かれています。映画冒頭、まだ店が開く前の時間に、ホリーがティファニーのショーウィンドウを眺めながら朝食をとるシーンには、彼女の人生観が凝縮されています。

ホリーは映画の中で、「ティファニーに行くと気分が良くなる」と語っています。彼女にとってティファニーは、日常の不安や混乱から逃れられる安全な避難所のような存在なのです。彼女が「ティファニーで朝食を食べられるようになりたい」と願うのは、単に裕福になりたいという俗物的な願望ではなく、内面的な安定と帰属意識を求める心の表れでもあります。

原作小説では、ホリーがティファニーに惹かれる理由をさらに深く掘り下げています。彼女は自分を「野生のもの」と称し、どこにも属さない自由な存在でありたいと願う一方で、心の奥底では安定と帰属を渇望しています。このアンビバレント(両価的)な感情が、「ティファニーで朝食を」というタイトルに象徴的に表現されているのです。

また、「朝食」という行為にも注目すべき象徴性があります。朝食は一日の始まりであり、新たな可能性を象徴しています。ホリーが朝日の昇る時間帯にティファニーの前に立つのは、新しい自分を求める姿勢の表れとも解釈できます。

興味深いのは、原作小説ではホリーが実際に「ティファニーで朝食をとる」シーンはなく、それは彼女の未来の願望として語られるだけであることです。映画版では冒頭でこのシーンを視覚化することで、ホリーの夢と現実の乖離をより鮮明に表現しています。

こうしたティファニーの象徴性と「朝食」というモチーフの使い方は、この映画の奥深さと芸術性を高めています。表面的には軽やかなロマンティック・コメディでありながら、その内部には人間の普遍的な欲望と不安を巧みに織り込んでいるのです。これこそが「ティファニーで朝食を」が時代を超えて愛される理由の一つと言えるでしょう。

まとめ:ティファニーで朝食をがなぜ名作と言われるのかは複数の芸術的要素が組み合わさった結果

最後に記事のポイントをまとめます。

「ティファニーで朝食を」がなぜ名作と言われるのか、その理由を振り返ってみましょう。

  1. 演技、音楽、映像、脚本、衣装、演出といった複数の芸術的要素が高いレベルで融合している
  2. オードリー・ヘプバーンの魅力的な演技がホリー・ゴライトリーというキャラクターに独特の深みを与えた
  3. ヘンリー・マンシーニの名曲「ムーン・リバー」が映画の世界観を格段に引き上げ、映画音楽の可能性を広げた
  4. 1960年代初頭のニューヨークを舞台にした洗練された映像美が観客を魅了している
  5. ジバンシィがデザインしたリトル・ブラック・ドレスをはじめとする衣装が、ファッション・アイコンとして文化的影響力を持った
  6. ブレイク・エドワーズの軽妙洒脱な演出が、コメディでありながらも情感豊かな作品を生み出した
  7. 原作と映画版の違いがあるからこそ、映画は映画としての独自の魅力を獲得できた
  8. 原作者カポーティの意図とは異なるホリー像が、新たな魅力を持ったキャラクターとして確立された
  9. 時代背景を考慮すると、ホリーの「奔放さ」は女性の自由や自立を先取りした先進的なものだった
  10. マリリン・モンローではなくオードリー・ヘプバーンが選ばれたことが、結果として作品に独特の魅力をもたらした
  11. 一部に人種差別的な描写など問題点を含みながらも、その他の優れた要素が時代による制約を超えた普遍的な魅力を持っている
  12. ティファニーという場所と「朝食」というモチーフの象徴的な使い方が、この映画に奥深さと芸術性を与えている